映画『美女と野獣』(2017)


「美女と野獣」は話からしてすごく好きだ。物語としてはヨーロッパのみならず、インドやアフリカにまで存在する類型だとか。構造分析的に言うと

・意地悪な2人の姉と純粋な妹
・魔法にかけられた王子
・異類(怪物や動物)の求愛

といったモチーフからできていて、シンデレラとかカエル王子とか里見八犬伝(←?)とかと重なる要素がある。ディズニー版には姉たちは出てこない。逆にガストンとル・フーはディズニーのオリジナルで、実は物語の構造には関係がない。ディズニーアニメとしての要請で悪役が必要になったということなんだろう。

バラッドにも出てきそうなアイテムとして、ベルが欲しがる薔薇とは何なんだろうか。野獣の屋敷において薔薇は命を意味し、それを摘み取ったベルの父親は死罪に値するとされて捕らえられる。冷静に考えると、華美な服だか宝石だかを所望した姉たちより、ベルの方が父親にとって禍であったとすら言える気がするのだが…

同じディズニーでもアニメ版はあまり感情移入できなかった。1991年の作品なのに、50年くらい古いディズニー映画のテイストを目指したためと思われる。しかし2017年の実写版は、エマ・ワトソンがいい。本が好きな知的な女性で、お母さんの血を引いて先取の気性に富んでいるという、今時のディズニープリンセス的な設定だけに、この配役はぴったり。ガストンもまた、いい。モリッシーのバンドのアラン・ホワイトを思い出させる美男で、髪型もクイッフ風だ。

音楽ブログなのであわてて付け加えるが、ディズニー版で何がいいといって、アニメにあわせて作曲された音楽である。同じ作曲家の前作『リトル・マーメイド』に見られるカリブ風味、次作『アラジン』の中東だかインドだかのスパイス風味がまったくなくて、あくまでヨーロッパ風、もっといえば教会風のメロディで、要は自分の好みなのです。主題歌に出てくる「ドレミファソ~ソファミレド~」というメロディ(歌詞:Barely even friends / Then somebody bends)とか、ツボです。

さて、しかし、この実写版ディズニー映画には根本的な弱点があると思う。

ひとつは構造的な問題で、王子は野獣に、家臣に至っては家具や食器に変身させられている。確かにオープニングの舞踏シーンには人間の姿で出てくるが、そこから2時間以上もの間、人間の時の姿を覚えている観客はいるだろうか。映画の最後に魔法が解けて人間の姿に戻った時、王子もさることながら、家臣など「あんた誰?」状態である。ここは実写ならではの欠点であろう。同じ実写でもジャン・コクトーの映画(1946年)は、この点うまく処理している。ただし人間の手が壁やテーブルから出てきたりしてて、超ブキミではある。

もうひとつは避けられたはずの問題である。なぜガストンがテノールで王子がバリトンなのか。実写映画のガストンときたら、美男の上に美声じゃないか。対する王子は、野獣の姿から王子に戻ったはいいが歌声がバリトンでは、いまいち締まらない(そのせいか王子なのに見栄えもいまいち冴えない)。王子がテノール、敵役がバリトンやバスってのが、オペラやミュージカルのお約束じゃないのか。

でも野獣の姿の時にテノールの美声では締まらんかったかなあ。してみると、これも、物語に音楽をつける上で構造上避けられない問題だったと言えるかもしれない。

映画『美女と野獣』(2017)

ハーン『美女と野獣―テクストとイメージの変遷』
この本を参照した。18世紀の出版物からコクトーを経て80年代の作品までを網羅。


ディズニーにおいて野獣は山羊=サタンと関係があるようで、曲がった角が生えてたりするのだが、色々な挿し絵を眺めていると、情けないイメージも多い。年寄りの猿みたいなのとか。これなんか、ただのイノシシやろ。(上図はWikimediaより)