転校生の敬君

「将来ソウル・フラワー・ユニオンが、どんなにグローバルな存在になったとしても、日本代表ではなく、あくまで関西のバンドと呼ばせてもらおう」(*1)

ワールドワイドな活躍をするミュージシャン、ドーナル・ラニーは、あくまでアイルランド在住のアイルランド人であり、その対比でソウル・フラワー・ユニオンを「関西のバンド」と規定することは納得できるように思う。ではなぜ、「関西」なのか。

これまでのソウル・フラワー・ユニオンあるいは中川敬の発言にも「日本解散、関西独立」(その場合「国旗は阪神タイガースの旗、国歌は六甲おろし」)、「自分は在日関西人と思っている」というようなものがあった。やはり「関西」だ。 なぜ「大阪」でも「京都」でもなくこのことばを選んだのだろうか。ニューエスト・モデル、メスカリン・ドライヴ時代からソウルフラワーに関わったメンバーのほとんどは大阪在住であり、バンド結成以前から彼らの主な活動地は、バイト先も遊び場もライブハウスも、大阪だったんじゃなかったか。 ヒデ坊と洋子が出会ったのは京都だし、彼ら自前のスタジオは京都に近い場所にある。 さらに現在、伊丹英子は京都在住だ。

ここまで考えて、ふと思い当たることがあった。中川は、父親の転勤の関係で子供時代、大阪・奈良・滋賀の各県にまたがって6度の転校を繰り返したという(*2)。「関西」というのは中川の生い立ちとソウル・フラワー・ユニオンのあり方を包有できる便利なことばだったのではないか。

ニューエストがメジャー移籍するとき、「ソウルフラワー」レーベルごと、つまりメスカリンと共に移籍すること、さらに首都圏に引っ越さず関西在住のまま活動することの二つが条件だったという。彼らの反骨精神、反中央集権指向を表わすエピソードであるが、ここに転校生だった中川の定住願望を見ることもできると思う。そしてソウル・フラワー「ユニオン」の結成。ぼくはこれをニューエストとメスカリンがつくった「家」だと思っている。 常に友達と別れ続けなければならなかった子供時代を過ごした中川が、反権力の根城として、また確固たる自分の居場所として、「大阪」でも「京都」でもない、「関西」という場所に築き上げた家である。

97年はこの「家」にとって危機の年だった。ヒデ坊の耳の故障による一時活動停止が契機とは言え、この間のメンバー各人独自行動は最終的に太郎と洋子の脱退へとつながる。そして中川のソロプロジェクトが発表したアルバムのタイトルは「ロスト・ホームランド」というものだった。「失われた故郷」。ソウルフラワーはどうなってしまうのだろうかという危機感がぼくにはあった。

彼らをここでつなぎとめ「正式メンバーは四人」と断言させたものは、実は中川のアイルランド渡航だったと思う。当初彼のソロ活動のゲスト的に関わったはずのドーナル・ラニーは、すぐにメンバー全員を日本とアイルランドの往復生活に巻き込む。震災以降続けているモノノケ・サミットの活動と平行して行われたこのアイルランド行きは、どこへ行っても自分は自分だという確信をこの四人に与えたのではなかったか。

東京は嫌いだと常々断言していた中川が、98年末ツアーにコーラスで参加した原ミドリを「下北[沢]でゲットした飲み友達」と紹介し、「下北にもええ飲み屋があるねえ」と発言したことにはあっと驚いた。 そして同じく下北でゲットしたと思しき軍隊コートをはおって、中川は神戸で、アイルランドで、東京で、同じように酒を飲み、演奏する。今の彼はかつてないほど内からの自信に満ちているように見える。

新作「Winds Fairground」はドーナル・ラニーをはじめアルタン、キーラといったアイルランドのスターが大幅に参加した作品だ。しかしその中で、彼の「どこへ行っても自分は自分」という自信は決して埋もれてしまうことなく音を鳴し続けている。ソウル・フラワー・ユニオンを「関西のバンド」と規定する必要はないのだと思う。「関西」は転校生・中川の探し求めていた架空の故郷であって、もうそれは見つかってしまったのだから。

*1)フランソワ・ビヨヨン。アルバム「Winds Fairground」ライナーの解説より。
*2)ロッキング・オン・JAPAN 93.10. p. 16 を参照。

1999.3.3. 中山貴弘

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