韓国の日本語開放について

当ホームページの掲示板において、ソウル・フラワー・ユニオンの韓国・釜山での ライブ(1999.8.1)がしばしば話題になりました。 これは公的な公演での日本語使用禁止が禁止されていた韓国において、「解禁後 初のライブ」ということになっていますが、掲示板の参加者からハウンド・ドッグ や喜納昌吉、その他いろいろな「初のライブ」が報告されました。

例えば、 こうした一連の動きについてまとめられたホームページ などを参照しても、「誰が一番乗りか」ということの判定は容易ではないようです。 しかし、ここで問題なのは初乗りを競うことではなく、 この流れがどういう政策動向によって起こったものかということだと思います。

これについて分析をすることはぼくにはできませんが、 ぼくが特に関心を持ったのは、「ハプニングで日本語を使用 してしまったが続行された」という朴保のライブでした。 また朴保についてはハプニング以上に、日本の占領政策の結果生まれた存 在である彼の持つ自然なことば(のひとつ)が日本語であることについても、 歴史的な重みを感じます。

朴保の公演については AERA 1998 No. 25 (6.29) と MUSIC MAGAZINE 1998.7 にフリーライターの志田歩さんによる記事がありますが、 後者の転載許可をいただきました。 掲載をご許可下さった MUSIC MAGAZINE 編集部と志田歩さんに感謝します。


歴史の壁を音楽で破った朴保Bandのソウル・ライヴ

志田歩

 ご存知の方も多いと思うが、これまで韓国では公の公演で日本語を使うことが出来なかった。しかしかねてから日本の大衆文化の開放を唱えていた金大中氏が大統領となったことで、そうした空気は大きく変わりつつある。未成年者入場不可という制限付きとはいえ、つかこうへい劇団にソウルでの日本語公演の許可がおりたのもそうした変化の現れだ。それでも音楽についての開放はまだ先のことになると思われていたのだが、僕が今回目撃した朴保Bandのソウル公演は、そうした意味あいにおいて前例のない歴史的なものとなったので、報告しておきたい。

 今回彼らをソウルに招いたのはブルース・ロックのベテラン、シンチョン・ブルースのリーダーであるオム・イノ氏。彼は昨年秋に日本で行われたワンコリア・フェスティバルに出演した際、同じステージで演奏した朴保Bandに惚れ込み、自国にもその存在を紹介したいという思いで、今回の“98ブルース・ジャム・イン・ソウル”を企画した。ソウルのインケル・アート・ホールにおいて5月22〜24日の3日間4公演にわたって行われたこのイヴェントは、全公演ともシンチョン・ブルースが一部、朴保Bandが二部、セッションが三部という構成。

 ひょっとしたら勘ぐる向きがあるかも知れないが、朴保自身としてはあえてタブーに触れて主宰者のイノ氏に迷惑が及ぶようなことは望んでいなかった。そのため普段は日本語で歌っているレパートリーも韓国語で訳した形で歌うためのリハーサルまで行っていたのである。しかし初日に進行上の都合で急遽演奏曲を増やさねばならない時に、歌い出してしまったのが客席とのコール&レスポンスの中に日本語も飛び出すナンバーだったことから、事態は急展開していく。なにしろアーティストが日本語で歌うことすらはばかられる状況の中で、いきなり観客にも日本語で歌わせてしまい喝采を浴びたのである。そのうねりは日毎に大きくなり、最終公演では場内総立ちになって踊るという盛り上がりにまでいたった。後で僕が関係者から聞いた話では、踊っている観客の中には国会議員や次期ソウル市長候補といわれる政治家の姿もあったという。まさに音楽の力で歴史の壁を一挙にのりこえてしまったのだ。

 ちなみに朴保というミュージシャンは、在日二世として生まれ、約10年間におよぶアメリカでの活動中には、ジェリー・ガルシアやナラダ・マイケル・ウォルデンとも深い親交を持っており、朴保&切狂言、東京ビビンパクラブでの活動を経て、現在は朴保Bandを率いている。一般的な知名度はないが、ロック、ソウルから韓国、日本の民謡までを貪欲に吸収し、即興的な閃きに満ちたステージングで展開するパワーに僕が期待しているということは、4月号の特集“90年代の音楽”でも書かせてもらった通りだ。

 こうした無差別な指向性を持つ朴保にしてみれば、自分のステージの中に英語、韓国語、日本語の歌が共存することは、これまで日本でのコンサートでもごくごく自然に行ってきたことに過ぎない。そんな音楽的出自を考えてみれば、彼が今回こうした役割を務めたのは、まさにうってつけだったといえる。  ただしその影には韓国側のスタッフの奮闘があったことも忘れることはできない。現在の韓国はIMFの緊急融資で明らかなように経済状況はかなり深刻であり、政治的な部分だけでなく公演予算の捻出などにもかなりの困難があったはずである。また機材のトラブルなども多く、初日の開演直前には双方のスタッフ間が険悪なムードになった瞬間もあった。だがそんな難局を乗り切ることが出来たのは、いつもユーモアを失わず、しかも謙虚な人柄でこの公演に関わった全ての人を魅了したイノ氏の存在があったからこそだ。

 今回の公演には政府関係者の庇護があったわけではない。国境を越えた音楽を愛する者同士の純粋な絆を糧に、現場のスタッフが臨機応変な対応を行い、政治家も巻き込んで韓国の機運の変化を押し進めていこうというものだった。それゆえそこに立ち会えた者の一人として僕自身の感動も深い。この場を借りてイノ氏をはじめとするスタッフ、ならびに今回現地の情報を色々と教えてくれたテレビ朝日ソウル支局長の宮川晶氏に感謝を表しておきたい。

 また僕としては今回の主役である朴保の伝記を書いてみたいので、この件に興味をお持ちの方がいたら、志田まで御一報下さい。

(以上 MUSIC MAGAZINE 1998年7月号からの転載。原文の改行を一行空けにしています)

(このページ1999.11.25掲載 99.11.26 一部修正)

魂花レビュー