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まるで女だね/中山ラビとの出会い

下の文章は、筆者の@T.K.生さんが80年から81年にかけて関わったラビのミニコミ誌『ラビング』(正式名称は漢字)に載せたものだそうです。 なおこのページは [永遠の少年のホームページ] へ投稿されたものから、ご許可をいただいて転載したものです。 原文は上記ページをご覧ください。 (1999.2.)

プロローグ

中山ラビとの出会いについて,時間の流れに沿って書いてみようと言うのがこの文の意図であるが,その前に前口上を. 人の出したレコードなりコンサートに対して,ああだこうだと無責任に言うことは考えなければいけない.もちろんアーティストと聞き手側とは決定的に違うところはあるわけで,例えばあるアルバムに対する評価が全く反対になってしまったりすることも多いのは,むしろ当然なんだろうけど,音楽をやる同じ位の真剣さ(あるいは不真剣さ)が聴いたり書いたりする方にも必要だろう.もっとも最近はそれほど真剣さのないアーティストも多いようなので,その場合はまた別の話になるんだろうけど.

 ラビの場合,好き嫌いは人によってあるだろうけどすこぶる真剣なアーティストだと思う.その上僕(達)はラビの音楽が大好きときているわけだから,こういう文を書くことに対して真剣なことはむしろ当然だし心配はないのかもしれないが,逆にアーティストべったりになってしまい,イージーな所でまとめあげてしまうことは注意しなければいけない.もっともいわゆる「ミーハー」になることはしょうがないし,むしろ非常に喜ばしいことだと考えているけれど. 「コンサートにわざわざ出かけていく人も,実は歌っているんだ」とかつて言われた時がある.今はそういう幸福な時代ではないのだろうけど,少なくとも同じ位の熱意を持っていたいと思う.

レコード・デビュー以前

僕が初めてラビを知ったのが,ファーストアルバム『私ってこんな』が出る数カ月前の72年9月頃であった.何で知ったのかというとやはりレコードだった.矛盾するようだけどURCから発売されていたオムニバス・アルバム『第4回フォークキャンプ』(何と!69年8月の録音)を入手したのがその時で,その中に1曲ディランの「悲しきベイ ブ」の日本語版「おれじゃダメ」が入っていたのだった.

 最初に思ったことは「あれ,女だったのか!」(曲が聞こえてくる前に内ジャケットの写真を見ていたから)で,次に「ああ,昔はこんな人もいたんだなあ!」であった(ゴメンネ).歌い方は何と言ったらいいか難しいけど,つまり気味でやや聞き苦しさを感じさせ,余り印象に残らなかった.ただ余り女を感じさせないながらもきりっとした印象は,その頃からのものである.それは後になって聴いた「帰りたくない」にも共通している.

ファーストアルバム『私ってこんな』からファーストコンサート『東京へやって来た』

 そうした出会いから数カ月後ファーストアルバム『私ってこんな』発売と前後して,何曲かがラジオから流れてきた.その中で僕がすぐにひかれたのが「バッタのように」だった.とりわけ [ここで歌詞の一節を引用しているが,載せられないので省略.足とか腰とかが出てくるちょっとHなやつです]と言う一節にはまいってしまった.”難解だが的確”な漢語混じりの詞が,独特のリズムに乗って歌われていて「ああ,ついに女の人でこんな唄を歌う人が出てきたのか!」と感激したものである.この唄が僕にとってラビとの本当の出会いと言うべきものであった.

 そんな出会いの後,73年の5月29日に『東京へやって来た』という ファーストコンサートで初めて生のラビと出会うことになる.『東京へ やって来た』はもちろん「大阪へやって来た」をもじったもので,その 題名からも分かるように当時まだ存在していた如月音楽一家の主 催で行われたのだった.如月からの知らせでディランII+中山ラビと 言う顔ぶれでコンサートが行われることを知り,2組とも興味あるア ーティストだったので出かけて行ったのである.

 ラビのステージは,初め弾き語りで後半スラッピー・ジョーのバック を付けてという形式で,「バッタのように」や同行した友人が気に入っ ていた「13円50銭」(僕はそれまで聞いたことがなかった)や「玉子と じ」等歌ったのだけど,「玉子とじ」は”脱いだ”と評判になった『春一 番』のすぐ後で,会場のロビーでも話題になっていた.それを別にす ると当時のラビは割と地味目で,女としてもそれほど色っぽくなかっ たと思うのだけど,かなり気に入り,好きなアーティスト・ベスト5or10 にランクされたのである.実はディランIIが,より好きになったのだけ ど. 続く

(1980.9)@T.K.生 HGD03700@nifty.ne.jp


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