メレディス・モンクとイ・ラン:身体表現としての音楽


バイオリンの演奏は身体表現だと言っている演奏家がいて、「ああ、確かにぐわーって感じで表現してるよね」と一瞬納得しつつ、楽器の演奏が身体表現なのかどうかは議論の余地があるのではと思ったのだけど、もちろん楽器を演奏することは身体を使うことだし、それを他人に聞かせることは「見せる/魅せる」ことではある。

音楽が音だけで成り立つ芸術であることは、音楽の歴史の上でそんなに当たり前ではないのかもしれない。祭りや儀式や教会において、あるいは貴族の社交のBGMに、民衆のダンスの伴奏に、そしてオペラという演劇と切り離せない形式に、音楽は使われてきたのであって、おそらく音だけが独立して鑑賞されるものとなったのは「聴衆の誕生」を経て、録音技術やラジオの発明以降だろう。

20世紀も終わりが近づいた頃に、音楽を音だけで捉える習慣をひっくり返したというか、音楽の視覚表現的な面を復権させたのがMTVだったと一応言ってみよう。自分はラジオで外国の音楽を聴いて育った口なので、MTVで海外の有名ミュージシャンの姿を観れたのはすごく新鮮だった。

しかしMTVにはすぐに疑問を感じ始めた。なんでかというと、くだらないビデオが多い。控え目に言ってもビデオのストーリーしか覚えてない曲はいっぱいあったし、音楽を聴く邪魔になるビデオは無数にある。

というわけで、音楽のビデオというのはYouTube時代になっても基本的に観ないことが多かったのだけど、最近その認識を改めざるを得ない映像を知ったのが、こちらになります。

Meredith Monk – Turtle Dreams (shot by Ping Chong), fixed audio

この人は人間の声の可能性を追求した前衛声楽家という認識だったが、最初はコレオグラファーとして有名になったとのこと。亀が沼地を出て世界地図の上を歩き、ついには無人の廃墟のようなミニチュアセット(別の惑星にたどり着いてしまったのだろうか)を巨大亀となって歩くところなどは、どちらか言うとMTVに近いかも知れない。しかし、この4人が単調に反復するステップを踏みながら、時折意外な動きをする映像は音楽と不可分だ。

音楽について言うと、これはクラシックの極北だと思う。クラシック音楽はロマン派から逃れるために、印象派から、十二音階から、古楽への接近から、あらゆることをやってきた。その先をつきつめると、芸術というより遊んでいるように見えてきて、不思議なことに音の印象が民族音楽に近づく。もし人間の音楽の本質が「遊び」にあるのだとしたら、違う発展の歴史を持つふたつの音楽は同じ地点に到達しようとしているのだと言えるかも知れない。

さて「亀の夢」を観て思いだしたのが、イ・ランの「神様ごっこ」のビデオ映像だ。

[MV] 이랑 – 신의 놀이 / Lang Lee – Playing God (Official Video)

イ・ランは元々映画を志していたとのことである。この人にとって音楽は、演劇やダンスと不可分な表現なのだと思う。

このビデオでは、縫い物をしているようなパントマイムから音楽が始まって、歌手が肩こりをほぐそうとする仕種や表情を捉えたMTV的な装いの回想シーンに入るが、しかしその伸びの仕種が振り付けに変化し、さらに集団演技になっていく。

その演技は床を磨いたり糸を引っ張ったりするような仕事の動作と、ストレッチや深呼吸のようなリラックスの動作、さらにハンドサインが混ざったものだ。

CD『神様ごっこ』の日本盤には本人によるエッセイと各曲の歌詞の日本語訳がついている。この曲には芸術学校であこがれの監督に映画の授業を受けた話が添えられていて、歌詞は「ひょっとして私は映画をつくることで/神様ごっこをしようとしているのかもしれない」というものだ。

「神様ごっこ」というのは監督やプロデューサーの役割だと考えてもいいだろうが、このビデオを観るならば、人々の労働と休息を、演じることつまり「遊び」にすることだと解釈したくなる。そして「神様ごっこ」ということばはギリシャ演劇を想起させる。イ・ランは、儀式と芸術が分かれる前の場所に立ち戻ろうとしているように見える。これは先に触れたメレディス・モンクが到達しようとした地点なのではないだろうか。

Meredith Monk –
Turtle Dreams

イ・ラン『神様ごっこ』